Masaki TANI Exhibition -Your Ray- (2017)

​人が知覚も認識もできないものや世界。それはただその存在として在り続けるのだろうか。私たちの世界はその他の世界からも、そうした存在として在るのだろうか。仮にそれらの無限で多方面への階層を次元と捉えるならば、私たちの世界は他の次元に支えられて存在すると共に、他の次元を支える存在であるのだろう。全ては仮の存在なのだろう。

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actor Haruka Miyagishima

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【批評文】(哲学批評:曽布川祐)

電車の音とは、数あるサウンドスケープの中でも西洋的な文脈上にある大衆音楽に近いものだろう。

単調に規定されたリズムとメロディー。僅かばかりの即興的要素である乗客も、みな社会的に規定され、紋切り型の音声を出すばかりである。

特に山手線という「楽曲」は、電車という「楽器」が奏でるものの中でもかなり規定されたものだろう。

それはまるで、「金太郎飴」と揶揄されたラモーンズのようですらある(環状線であるそれは、何度も繰り返しリプレイされる。アナウンスによる「歌詞」もいつも一緒だ)。

「山手線」という楽曲は、BGMとして決して耳触りなものではなく、むしろ心の平安を保証するものであるに違いない。言うなれば、これは音楽的な作品である。

製作者の意図は、三次元空間である「我々の世界」の代表的な風景として、世界で最も利用客の多い山手線の映像を壁に写す(移す)ことによって、それを二次元に押し込み、それを外から見る鑑賞の主体者の世界→三次元を、四次元として引き起こすことにあったのだろう(対面の壁には、ギャラリーを鑑賞する己の姿が同時的に映し出される。用心深く二重に仕掛けられているのだが、その効果のほどは、個々の鑑賞者の感想を集計した統計の結果を待つばかりである)。

ソシュールの「一般言語学講義」では、言語における共時的状態は壁に映写された言語の通時的運動である、と表現されている。この比喩を我々の空間に適用し逆側から読むと、壁に映写された空間は時間軸から切り離される、ということになる(まるで現象学だ)。要するに、一つ下位の次元に引き落とされる、ということである。

我々の視覚もまた、心という壁に世界を映すゆえに同じことが起きると言える。

我々にとって物事を立体的に捉えることが困難なのはそのためだ(我々が物事を立体として解釈するためには、複数の面を幾何学的に組み合わせる必要がある。我々の知覚の限界がこの「面」なのだ)。

作品に戻ろう。あらかじめ面となった山手線の風景は、我々に空間的感覚を喚起させず、聴覚が優位性を持つものとなる。

それゆえ、「この作品は音楽的な作品である」と言い得るのだ。